投稿

きーばあちゃんのしょうが湯一代記 第四章

イメージ
こんにちは、きーばちゃんです。 少し、懐かしい写真をご紹介させていただきます 父の後ろが私です。 尾道市向島にある千汐海岸にて 私は、母の前(向かって一番左)です。 広島の宮島にて   多分、小学校へ上がる前だっとと思います。 かわいいでしょう・・・  それでは、次回「きーばあちゃんのしょうが湯一代記 第五章」、 楽しみにお待ち下さい!!

きーばあちゃんのしょうが湯一代記 第三章

イメージ
  こんにちは、きーばあちゃんです。 またまた大変、長らくお待たせいたしました。 「きーばあちゃんのしょうが湯一代記 第三章」です。 父は、私が小学校の頃は、あめドロップ菓子をつくり、 菓子問屋に卸しておりました。 しかし、菓子問屋の倒産等で生活は大変でした。 倒産した菓子問屋は支払いができないので、 お金の代わりに菓子(チョコピー他)商品を持ち帰っていましたが、 私には事情が分からなく、お菓子を喜んで食べていました。 小学校4年生くらいだと思うのですが、こんな事もありました。 父の配達する自転車(荷台が大きく、荷物がたくさん積める自転車)を、 坂の上までおして上がりました。 しかし、この自転車は大きくて、小さい私には足が届きません。 ブレーキにも手が届きません。 坂の上に自転車を持っていき、足の届かない自転車に乗って、 坂の上から出発したんです。 何とか下まで走っていき、 ちょうど尾道の対岸にある、向島中央の東西橋のあたりで自転車のスピードが落ちます。 近所の方が、父に「あんたところの娘は、足のたわない自転車で、 東西橋の坂の上から降りてきては、また自転車をおして上り、 降りてきているよ、命が無くなるよ!」と言われ、私はてっきり 父に叱られると思いました。 覚悟をしていましたが、次の日、父は私のために子供用の自転車を買ってくれたんです。 (姉も弟も、自転車は買ってもらえなかったのですが、私はなんて親の心配の種だったことでしょう。) その時の、一枚の写真があります。  父に買ってもらった、自転車   「親の心子知らず」 でしたが、父の創作したしょうが湯を、 昭和42年から、63年6月まで、一途に一生懸命、全国を売って歩いてまいりました。 スギマル きーばあちゃんより 次回へ続く 

きーばあちゃんのしょうが湯一代記 第二章

イメージ
こんにちは、きーばあちゃんです。 大変、大変、長らくお待たせいたしました。 「きーばあちゃんのしょうが湯一代記 第ニ章」です。 終戦後、父清義は、地元にある日立造船へ就職し、母ヒフミと結婚し、一男、二女をもうけました。 結婚して、姉(長女)が8年目に生まれ、 その3年後に私(きーばあちゃん)、その3年後に弟が生まれました。   家族写真(私、姉、弟)     七五三 その後、父は日立造船を退職し、知人からの勧めで、番傘の商売を始めました。 しかし、番傘の製造では、ノミで手を打つ大けがしてしまい、仕事が出来なくなり、 番傘の商売は、しかたなく諦めました。 その時、私は、初めて母の泣く姿を目にしました。 母はただ、押入れの前で、声を押し殺して泣いている様に見えました。 私は子供ながら、母に声をかけられず、見ないふりをしたように思います。 母は父に対して、一度も口応えをした事は無く、母が泣いた姿を見たのは、 後にも先にも、これ一度です。 当時は、貧しい生活の毎日だったはずなのですが、 私たち子供は、自分の家が苦しいと感じた事はありませんでした。 (唯一、姉は知っていたかもしれません) 父 清義は、家族を人一倍大事にする人で、 家族の食事を食べさす日銭を稼ぐため、毎日毎日、一生懸命働いておりました。 そんな生活の中、父は、知人の借金の連帯保証人になり、その知人が夜逃げして、 借金返済のため、生活は苦しくなっていきました。 スギマル きーばあちゃんより 次回へ続く

きーばあちゃん しょうが湯一代記 第一章

イメージ
  こんにちは、きーばあちゃんです。 「しょうが湯一代記」が、いよいよスタートします。 と言っても、何から話をしようかと色々考え、これもまた大変でしたが、 まずは、しょうが湯の生みの親である、私の父の話から始めようと思います。 明治44年生まれの父、樋口清義は、18歳に日本帝国陸軍入隊後、 騎馬隊に配属され満州事変で、活躍後除隊し、 広島県御調郡向島町(現在の尾道市向東町)へ復員してまいりました。  父 樋口 清義  騎馬隊 その後、地元にある日立造船へ就職、母ヒフミと結婚し、一男、二女をもうけました。 私、清美は、その次女として、昭和20年に生まれ、 波乱万丈なしょうが湯人生を送る事となります。  母 ヒフミ 戦後の日本は、今では想像も出来ないくらいの貧乏な国で、お百姓さん以外は、 毎日の食事をまともに、食べることも出来ない貧しい生活が日常化しており、 我が家もご多分にもれず、貧乏な家でした。 しかし、父親清義は、家族を人一倍大事にする人で、 家族の食事を食べさす日銭を稼ぐため、毎日毎日、一生懸命働いておりました。 スギマル きーばあちゃんより 次回へ続く 

ご挨拶

イメージ
みなさん、はじめまして。 平素は、スギマルのしょうが湯、くずゆをご愛飲頂きまして、心より感謝いたします。 お陰様で、杉丸物産は25周年を迎えることができ、26年目のシーズンをスタートいたしました。 創業以来、波乱万丈な25年ではございましたが、たくさんの素晴らしい人たちとの出逢いと、 素晴らしいスタッフに助けられ、数々のピンチをチャンスに変える事が出来ました。 今日あるスギマルは、皆様のお陰と心より感謝申し上げます。 しょうが湯の歴史は、スギマルの歴史です。 45年前、貧しい家計の中、父と母がコツコツと苦労して創作し、姉と私が家族の応援をもらって、 しょうが湯の効果と味を1点1点説明しながら商いを始めました。 何事も後ろを振り向かず、誠実な素直な気持ちで前を向いて、お客様からの「身体があたたまる」、 「のどが楽になった」、「美味しかった」とのお褒めのお言葉を励みに、突き進んでまいりました。 この新ホームページをスタートするにあたり、「きーばあちゃんのしょうが湯一代記」を 皆様にお伝えする事が出来ればと考え、私のブログを立ち上げさせていただきました。 頑張って、月一回の更新は心がけてまいりますので、1人でも多くの方に ご覧頂きお楽しみ頂ければ光栄です。 どうぞ、よろしくお願い致します。 私は、しょうが湯と出会えて、本当に幸せだったと思います。 もちろん、これからも。 スギマル きーばあちゃんより 次回へ続く 25年間、スギマルを支えてくれた旧乾燥機の前で記念撮影 平成24年度 杉丸物産 安全祈願祭