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きーばあちゃんのしょうが湯一代記 第八章

  創立27年目に入りました。 25周年の祝いが済み、「さあーこれからスギマルの誕生」を 書いてまいろうと思ったのですが、なかなか書けなくて・・・。 やはり父のしょうが湯を手伝ったところまでさかのぼり 書いていかなくてはスギマルの歴史は語れません。 しょうが湯の歴史は父と母が2,3年かけて苦労に苦労を重ねて 開発した商品です。 以前から、あめ湯、冷やしあめはありました。 戦後甘ければいい商品は作られてまいりましたが、 父、母は身体に良い商品を作りたいと長い間願っていました。 父が子供のころ、祖母が風邪気味だった時にかたくりと砂糖を湯に溶き、 飲ませてもらっていました。 すると身体が温まり、快方に向かいました。(それを父が思い出して・・・) そこでしょうがを使った商品が出来ないものかと 試行錯誤していましたら、しょうが湯がやっとの思いで出来ました。 販売価格は5食200円で、当時大卒の初任給は15,000円の時代でした。 これは(このしょうが湯)はかなり高価な商品でした。 本格的に製造販売を始めて、新規問屋を開拓していく決断をしました。 すると商品は美味しく、味も良く、特に風邪に良い商品だと確信しており、 またこの世にはない初めての商品でもありました。 しかし実際は、父が初めて作った自信作のしょうが湯は、 相手方には伝わらず「お風呂に入れるの?」という質問が返ってきました。 ここから、父、母、姉、私、四人の波乱万丈の時代に入っていきます。

きーばあちゃん しょうが湯一代記 第七章

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  こんにちは、きーばあちゃんです。 大変長らくお待たせいたしました。 今回は、6月に開催する事ができました。 「スギマル25周年記念 謝恩パーティー」のご報告を させていただきます。 昭和62年3月27日、杉丸物産を設立して今年で27年目、 6月23日(日)にスギマル設立25周年をお祝いする事ができました。 皆様からいただきました、お祝いのお花です 会場入口前、社員一同で 演歌歌手の岩本公水さん、走裕介さんとみんなでガッツポーズ 社長が3年ほど前から考えて、やっと実現でき 感無量だったと思います。 創立27年が経ちました。 第八章からは40歳で会社を興し、 現在67歳までのきーばあちゃん波乱万丈を書いてまいります!! どうぞよろしくお願い致します。

きーばあちゃんのしょうが湯一代記 第六章

  こんにちふぁ。きーばあちゃんです 5章まではきーばあちゃんの子供の頃をお話ししてまいりましたが、 お話はいっきにスギマルすと~りぃへとまいります。 私は結婚(23歳)と同時に父の作ったしょうが湯を、 父、母、姉、私の4人で作り、 父、姉、私の3人でコツコツと売ってきました。 昭和61年の年に、売上1億7千万円の実績を作りましたが、 とても私一人の営業では対応出来なくなり、主人に父の会社へ 入ってもらう事となりました。 さあ、ここで私の夫、テルぢいちゃんの登場です!! 色白でくりっと大きい瞳を持った私の夫、テルぢいちゃん!うふっ。 17年間勤めた製鉄関連会社を辞めて、私の父さんが作ったしょうが湯の会社に転職。 テルぢいちゃんに入ってもらって、 2年間2人で全国をまわり営業を頑張っておりました。 そんな時、東京のとある会社のために作った商品、 いわゆるPB商品が検査に通らず全品回収となり、 焼却処分となったのです。 それは忘れもしない昭和61年6月25日の事でありました。 それは、 解雇 。まさかの 解雇 ・・・。 もっともっとしょうが湯を全国に拡売しようと提言したら、 「お前ら勝手にやれ!!」と解雇されました、クシュン  ぢいちゃんとばあちゃん2人仲良くセットで 解・雇 。 ち~ん。 あ‘‘-これぞ青天の霹靂。 でも、いきなり解雇って??? 私たちは何とか残りたかった、続けたかった。 販売だけでも任せてもらいたい。 そして、良い形でいつか2人で独立できたら・・・ そう思って2人で努力したものの、その甲斐空しく出されてしまった。 やっぱり2人揃って。 そもそも父の作った会社。 父を支えるために姉と力を合せてやってきた。 そのつもりだったのに・・・。 目的地は同じ。 でも、そこまで進むための道に意見の食い違いが出てしまった。 そして、心も別々になってしまった。 1本道を皆で進む事は叶わなかったのでございます。 突然の解雇通知に戸惑い、怒り、悲しみ、 テルぢいちゃんと天を仰いだあの日から27年・・・。 そして、テルぢいちゃんと2人で、 しょうが湯作りを初めて27年となりました。

きーばあちゃんのしょうが湯一代記 第五章

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  こんにちは、きーばあちゃんです  第四章の続きです。 同じく小学校4年生の折、尾道と向島を新しく結ぶ 車が何台も乗る フェリーが 就航しました。 その記念として、踊り部隊が結成され、向島で踊り、フェリーで渡り尾道でも 踊りました。 真ん中あたりの ○ が私で、その右上 ○ が父です 向島のフェリー乗り場に舞台が設置され、 私は6年生の方と一緒に代表に選ばれ踊った時の写真です。 向かって左が私です それでは次回、第六章をお楽しみに!! きーばあちゃんより

きーばあちゃんのしょうが湯一代記 第四章

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こんにちは、きーばちゃんです。 少し、懐かしい写真をご紹介させていただきます 父の後ろが私です。 尾道市向島にある千汐海岸にて 私は、母の前(向かって一番左)です。 広島の宮島にて   多分、小学校へ上がる前だっとと思います。 かわいいでしょう・・・  それでは、次回「きーばあちゃんのしょうが湯一代記 第五章」、 楽しみにお待ち下さい!!

きーばあちゃんのしょうが湯一代記 第三章

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  こんにちは、きーばあちゃんです。 またまた大変、長らくお待たせいたしました。 「きーばあちゃんのしょうが湯一代記 第三章」です。 父は、私が小学校の頃は、あめドロップ菓子をつくり、 菓子問屋に卸しておりました。 しかし、菓子問屋の倒産等で生活は大変でした。 倒産した菓子問屋は支払いができないので、 お金の代わりに菓子(チョコピー他)商品を持ち帰っていましたが、 私には事情が分からなく、お菓子を喜んで食べていました。 小学校4年生くらいだと思うのですが、こんな事もありました。 父の配達する自転車(荷台が大きく、荷物がたくさん積める自転車)を、 坂の上までおして上がりました。 しかし、この自転車は大きくて、小さい私には足が届きません。 ブレーキにも手が届きません。 坂の上に自転車を持っていき、足の届かない自転車に乗って、 坂の上から出発したんです。 何とか下まで走っていき、 ちょうど尾道の対岸にある、向島中央の東西橋のあたりで自転車のスピードが落ちます。 近所の方が、父に「あんたところの娘は、足のたわない自転車で、 東西橋の坂の上から降りてきては、また自転車をおして上り、 降りてきているよ、命が無くなるよ!」と言われ、私はてっきり 父に叱られると思いました。 覚悟をしていましたが、次の日、父は私のために子供用の自転車を買ってくれたんです。 (姉も弟も、自転車は買ってもらえなかったのですが、私はなんて親の心配の種だったことでしょう。) その時の、一枚の写真があります。  父に買ってもらった、自転車   「親の心子知らず」 でしたが、父の創作したしょうが湯を、 昭和42年から、63年6月まで、一途に一生懸命、全国を売って歩いてまいりました。 スギマル きーばあちゃんより 次回へ続く